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深夜2時のオーブン前で
街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく頃、その店の煙突からは静かに煙が立ち上り始める。駅から少し離れた住宅街の角にある『ヨルノパン』。深夜23時に開店し、朝の6時にのれんを下ろすその店は、眠れない夜を過ごす人々や、夜勤明けの労働者、そして少し早めの朝を迎える人々のための、小さな避難所のようになっている。
今夜の「真夜中のテーブル」は、スタジオを離れ、甘い小麦の香りが満ちる『ヨルノパン』の厨房からお届けする。
夜にパンを焼くのは、ただの作業じゃないんです。暗闇の中で生地のふくらむ音を聴いていると、世界がゆっくり息をしているのがわかる。 — 乾健介(00:18:42)
『ヨルノパン』の一夜
| 時間 | 仕事の内容 | 訪れる人々 |
|---|---|---|
| 21:00 | 仕込み・生地の一次発酵 | まだ街の灯りが賑やかな時間。静かに酵母が育ちます。 |
| 23:00 | 開店・成形・焼き上げ開始 | 最初の焼き立てが並びます。塾帰りの学生や、深夜散歩の人々。 |
| 02:00 | 窯の温度のピーク・深夜の対話 | 街が最も深く眠る時間。タクシー運転手や、眠れない文筆家。 |
| 04:00 | 仕込み第二弾・夜明けの準備 | 新聞配達の方、早朝ランニングの途中に寄る人々。 |
| 06:00 | 閉店・片付け | 街が動き出す頃、店主の乾さんは眠りにつきます。 |
対話の記録:なぜ夜にパンを焼くのか
00:01:05 相沢 今夜の「真夜中のテーブル」は、スタジオを少し飛び出して、住宅街の路地裏にある『ヨルノパン』さんの厨房をお借りしています。
00:01:22 木村 外は冷たい雨が降っていますが、ここは窯の熱と、焼きたてのシナモンロールの甘い香りでいっぱいです。乾さん、本日はよろしくお願いします。
00:01:38 乾 こちらこそ、こんな時間に来ていただいてありがとうございます。ちょうどデニッシュが焼き上がったところなので、温かいうちにどうぞ。
00:01:49 木村 わあ、外側がサクサクで、中はしっとりしていて美味しい……!深夜の身体にじわっと染みますね。
00:02:05 相沢 本当に美味しいです。乾さん、この『ヨルノパン』は深夜23時から朝6時までの営業という、かなりユニークなスタイルですが、そもそもなぜこの時間帯にお店を開こうと思ったのでしょうか。
00:02:28 乾 もともとは、私も普通の朝型のパン屋で修業していました。ただ、修業時代の仕込みって、朝の2時とか3時に始まるんですよ。誰もいない暗い街を自転車で走って、誰もいない厨房に入り、ひとり黙々と粉を計る。その時間が、実は一番好きだったんです。
00:03:00 木村 誰もいない世界の、静けさを独り占めしているような感覚でしょうか。
00:03:08 乾 そうです。昼間の賑やかな時間よりも、頭がすっきりと冴えて、粉の水分量や生地の温度に、より細かく神経を集中できる気がして。それで、自分が独立するときに、「この夜の静けさそのものを、お客さんと共有できるようなパン屋にしたい」と思ったのが始まりですね。
00:03:40 相沢 なるほど。でも、深夜にパンを買いに来る方って、どんな人が多いんですか?
00:03:52 乾 本当にいろいろですよ。夜勤を終えて帰宅する途中の看護師さんや、徹夜で仕事をされているクリエイターの方、あるいは単に「どうしても眠れなくて、なんとなく灯りが見えたから入ってみた」というご近所の方もいます。
00:04:15 木村 深夜って、昼間よりも人と人との距離感が少し柔らかくなりますよね。
00:04:22 乾 そうなんですよ。昼間のパン屋だと「どのパンにしようかな」と選んで買って終わりですけど、夜中だと、お客さんも少し誰かと話したそうにしていることが多いんです。「今夜は冷えますね」とか「仕事が終わらなくて」とか。そういうちょっとした言葉を交わすだけで、お互いに少しだけ肩の荷が下りるというか。
00:05:00 相沢 夜のしじまの中で、温かいパンと短い会話が、ひとつの拠り所になっているんですね。
夜の生地と対話する
00:08:12 木村 パン作りって、生き物相手だから本当に繊細ですよね。昼と夜で、生地の様子が変わったりするんですか?
00:08:24 乾 ええ、変わりますね。夜は昼間と違って、街の振動や騒音が極端に減るじゃないですか。不思議なことに、生地もそれに呼応するように、じっくりと安定して膨らむんです。温度変化も緩やかですしね。
00:08:48 相沢 へえ!街の静けさが、パンの生地にも良い影響を与えるんですか。
00:09:00 乾 科学的な根拠は分かりませんが、作っている私の心の状態が影響しているのかもしれません。夜は呼吸を深く、落ち着いて作業ができるので、生地に触れる手が優しくなる。そういう微妙なニュアンスが、最終的な焼き上がりの目の詰まり方や、口当たりに出てくるような気がします。
00:09:32 木村 なんだか、パンをこねるというよりは、夜の時間そのものをこねているような、ロマンチックな響きがありますね。
00:09:45 乾 (笑)そう言っていただけると嬉しいです。確かに、こねているときは無心になれます。自分が今、世界のどのへんに立っているのかを忘れて、ただ手の中の生地が変化していく様子だけに没頭する。それは一種の瞑想に近いかもしれません。
00:10:15 相沢 乾さんにとって、最も好きな「夜の時間帯」はいつですか?
00:10:24 乾 深夜の3時頃ですね。街の音が完全に消えて、風の音や、冷蔵庫のモーター音、そして窯の中でパンの皮が小さく弾ける『天使の拍手』と呼ばれる音だけが聞こえる時間です。あの瞬間は、世界で自分だけが起きているような、奇妙で愛おしい孤独感があります。
00:10:55 木村 『天使の拍手』、素敵な言葉ですね。焼き立てのパンが冷めるときにピチピチと鳴る、あの音のことですね。
00:11:05 乾 そうです。あの音が響く中、誰もいない通りを眺めながら温かいお茶を飲むのが、一日のうちで最も贅沢な時間ですね。
夜明けを待つすべての人へ
00:15:10 相沢 乾さんが作るパンの中で、特に深夜に人気のあるメニューは何ですか?
00:15:20 乾 やはり『夜明けのカンパーニュ』と名付けている、シンプルなライ麦パンですね。少し酸味があって、スープによく合うパンです。夜中に買って帰って、朝食に少しずつスライスして食べるという方が多いです。
00:15:42 木村 夜の間に買って、次の日の朝に食べる。それは「夜から朝への架け橋」のようですね。
00:15:52 乾 まさにその通りです。私が深夜にパンを焼くことで、誰かの明日が少しだけ優しく始まってくれたらいいな、と。眠れない夜を過ごしている人が、このパンを枕元に置いて「明日起きるのが少しだけ楽しみだな」と思ってくれたら、こんなに嬉しいことはありません。
00:16:20 相沢 ただお腹を満たすだけでなく、心を満たし、明日へ繋ぐパンですね。
00:16:32 乾 そうですね。だからこそ、材料にもこだわっていますが、一番は「急がないこと」を大切にしています。時間をかけて発酵させ、ゆっくりと熱を入れる。夜という長い時間を味方につけるからこそできる味があります。
00:17:05 木村 最後に、今この放送を眠れずに聴いているリスナーの方々へ、メッセージをいただけますか。
00:17:15 乾 眠れない夜は、決して悪いことではありません。それは、世界があなたに「少し立ち止まっていいよ」と与えてくれた、余白の時間だと思うんです。無理に眠ろうとせず、温かい飲み物でも淹れて、静かな時間を楽しんでみてください。もしよければ、散歩がてら『ヨルノパン』にも寄ってくださいね。いつでも火を灯してお待ちしています。
00:17:50 相沢 乾さん、本日は温かいお話と美味しいパンを本当にありがとうございました。
00:18:02 乾 ありがとうございました。またいつでもいらしてください。
編集後記
『ヨルノパン』を後にした時、東の空がうっすらと白み始めていた。私たちの手には、まだほんのりと温かい『夜明けのカンパーニュ』が握られている。
誰もが眠る街の片隅で、ただ一人オーブンの前に立ち、生地をこね続ける乾さん。その手は、美味しいパンだけでなく、暗闇に迷い込んだ人々の心を温める「小さな夜明け」をも作り出しているようだった。
眠れない夜、ふと窓の外を見て煙突の煙を見つけたら、それは誰かがあなたのために夜明けをこねている合図かもしれない。
(構成・文:相沢透)